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運転する場合、私たちはまず、外的状況(道路の形状・幅員・前方の状況など)を知覚することから始めます。これは、ほとんど目から得られる(網膜に写る)視覚情報の摂取という形をとります。しかし、外的状況のすべてが情報として私たちに採り入れられるわけではありません。そこで常に選択という原理が働き、多くの刺激の中から本人が必要な情報として選んでいるものが採り入れられます。 どの刺激を選択するかは、対象の特色(大きさ、色、動きなど)により決められますが、同時に本人の興味や関心、欲求、期待などの心理的な状態によって、その見え方(情報)が違ったり、気がつかないことがあるというのが、見るということでの怖さであり、留意しなければならない点です。たとえば、一つの絵を見て、何に見えるかという心理テスト(図参照)によってもこのことがわかります。
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ところで、「みる」は普通「見る」と書きますが、この言葉は多様な意味を持ち、視(気をつけてみる)、看(目を凝らしてみる)、観(望みみる)などでも表すことができます。「心ここに在らざれば視れども見えず…」との諺が示すように「みる」には「見える」と「見(視)ようとする」の2つの意味があります。「見える」は目に写っているものをみるだけの単にみているというだけの消極的な働きであるのに対し、「見(視)ようとする」は消極的な意図をもってみよう、理解しようとみる働きであるとの違いがあります。車の運転での「見る」は、当然、後者の方で、このように「視る」ことによりはじめて見るべき対象に注意が向き、しっかり捉えられたり、危険となりそうな事物が発見できるようになるのです。前者では、即事故につながることになります。
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